東上線の不気味な構造物 |
昭和30年代。まだ私が小学生低学年のころ両親に連れられて東上線の志木まで何回か往復した。当時は下り電車が成増駅を出て白子川の鉄橋を渡り埼玉県に入ると周囲の風景が一変した。住宅街は全く姿を消し、あたり一面キャベツ畑がうねりその向こうには雑木林が点在していた。町から農村へのこの劇的とも言える変化は全く驚くべきものであった。同様な景色が延々と続くが時計塔風のナショナルの広告塔や、仁丹の広告看板が畑の中に所々建てられていて目を楽しませるので飽きることはなかった。 次の大和町駅、現在の和光市駅との中間あたりに件の物件はあった。それは下り電車で向かって左側つまり線路の南側にあったと記憶する。コンクリートでできたトーチカの様な頑丈そうな建物で、工場などで見られる鋸歯状屋根を持っていた。幅は電車くらい、高さは電車の窓くらいの細長い構造物であった。線路沿いに数十メートルに亘って建てられていたので鉄道に関係する施設のようだが、その当時既にもう使われていなかったようで、コンクリートはどす黒く変色し子供心にも何となく不気味なものだった。電車がその鋸歯状屋根の脇を通過するときにたてるシュッ、シュッ、シュッ、シュッという風切り音が印象に残っている。 当時の私にそれが何であるか解ろうはずもなく、大人は電車に乗っても外の景色など全く興味がないのか、両親に尋ねても回答は得られなかった。その後東上線とは疎遠になり年月は経っていった。以後何回か東上線を利用する機会があったが例の建物はもうなかった。ましてや地下鉄が延伸され複々線になった現在ではその面影すらない。沿線の開発が進んだ現在、昔の農村風景も全く失われている。 「あれは何だったんだろう」.この何十年か、そのことが私の心に澱のように溜まって、暗い影を落としていた。今となってはもう調べようもないのか。 ところが、ところがである。偶然にもその答えは簡単に得られた。私は遂に発見したのだ。それは「東上沿線今昔物語」というホームページにあった。それは列車用掩体壕(えんたいごう)というものだったのだ。空襲に備えて列車を隠す設備だったのか。 記憶を辿ると、掩体壕の和光市方に草に埋もれた側線があったように思うが、建物の中に線路が引き込まれていたか、本線と接続されていたかは記憶が曖昧である。また直列に少し間をおいて二つあった(あるいは一部が壊れていたのか)ような気もするがこれも記憶が定かではない。またそれは電車が入るほど高さがなかったように思う。せいぜい無蓋貨車が入る程度ではなかったろうか。その区間の本線の線路は勾配で屋根の高さが電車の進行とともに変化していったようにも思うので、何とも言えないのだが。是非その点についても知りたいものである。 *列車用掩体壕の沿革など詳しくは山下氏の「東上沿線今昔物語」No.12 和光市の本田技研工場脇にあった戦時遺跡を参照されたい。 |