中央線 |
昭和30年代も終わりに近い頃中央線を甲府まで往復したことがある。当時は国鉄第2次長期計画の真っ最中だった。中央線は中野から三鷹までの高架複々線化工事が行われていて、造作中の橋脚やら鉄筋やらが車窓に流れる景色を阻害していた。また三鷹から先は各所に電車区や支線や引き込み線などがあって車窓に飽きがこなかった。当時の私にはこれらの線が何であるか知る由もなく、あの線路の先がどこへ行くのだろうかと想像力を掻き立てた。 三鷹の電車区ではオレンジの101系に混じって湘南色の165系やスカ色の71系が見られた。武蔵境で草蒸した浄水場への引き込み線と西武線、東小金井で車運車の積み込み場、武蔵小金井の電車区で101系の電車群、国分寺で下河原線と研究所への引き込み線、西武線。立川で青梅線と南武線、豊田の電車区はこの頃新設された。八王子で横浜線と八高線。その後暫くして京王高尾線が開通した。高尾の先、小仏トンネルの手前で単線になった。山岳部のスイッチバックも健在で単線の旧ルートだった。これらは長期計画の完成とともに廃止、複線化されて現在のルートとなった。 中央線の通勤電車は全部101系、支線の電車はいずれも茶色の旧国電、八王子では八高線の10系気動車が屯していた。このころの中央線に特急はなく急行アルプスがほぼ1時間毎に出ていた。車両は165系電車とキハ58系気動車だった。165系は1等車(後のグリーン車)2両とビュフェ車を連結し長い編成だった。58系は多層建て列車で新宿から松本行の他、富士急の河口湖、小海線の中込、飯田線の天竜峡、大糸線の糸魚川へ直通していた。普通列車は71系で73系との混合編成もあり、一部新宿まで入っていた。山岳夜行は旧客を連ねた中央、篠ノ井経由の長野行で、冬は暖房車を連結していた。その後何年かして特急あずさができた。かつての特急こだまが中央線に引っ越してきたのだが、とうとうこれにも乗れなかった。 |